中庸

2018年1月2日

2012/02/18
日曜日のクラスを手伝ってもらっている学生スタッフから、「これから自分の身の振り方を決定する上で必要な情報を仕入れるのにどうすれば良いのか?」という相談を受けました。彼女も藝大の3年生。就職や大学院への進学について考えるにつけ、色々と思うところがあるのでしょう。
自分なりに調べて行き着いた様々な「ジャーナリスト」から発信される情報が、結局は「その人の主観によるものでしかない」ということに気が付いたようです。彼女の同世代だと、まだそこまで真剣に社会との関わりについて考えていなかったり、無自覚にある主張に同調したりする人は少なくないでしょう。そのなかで、冷静に自分の立ち位置を見定めようとしているのはえらいなと思いました。
自分自身も思い悩んだ問題でもあります。正解はないのでしょうが、「ある意見に触れたら、その反対意見にも目配りをする」「新聞は複数紙に目を通す」その上で「マスコミは良くも悪くも<プロ>というフィルターがかかっているので、発信側の立場を想像しながらも信用する」ということを伝えました。
最終的には「中庸を心掛けなさい」ということになるのかもしれません。耳に心地よい言葉というのは、えてして極端な主張によって判断停止に誘うものです。「○○は100%認めない」とか「1ミリでも譲れない」という形容は、その立場にある人間にとっては心強いものでしょう。しかし、そうでない立場にとってどう感じられるのか?そもそも、誰にとって利益があり、不利益があるのか?自分に問いかけ続けなければ、精神の自由が脅かされることになるのではないでしょうか。
こうした僕の意見も数ある意見の中のひとつ。彼女には、それこそ自分自身で様々な意見を参考にしながら、自分なりの判断の仕組みを構築していって欲しいと思います。
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