「トリニダード・トバゴ戦」3

2018年1月3日

書籍「オシムの言葉」に出会ってから、サッカーネタが続いています。本人としてはサッカーから教育、美術へアプローチしているつもりなんですが、多少サッカーの方によりすぎているような、いないような…。ともかく、このシリーズの最終回(予定)。
一連の記事を書こうと思ったのは、オシム監督が風変わりな練習方法で、代表イレブンを揺さぶっているという報道に、日頃あまりサッカーに興味を示さないスタッフが「へ~。この人のやっていることとオレらのやっていることは同じだね」と漏らしたのがきっかけでした。多分彼は「教える側が硬直化してしまったら、伸びるものも伸びなくなってしまう」という文脈で関連づけたのだと思いますが、この一言でそれまで漠然と感じていたオシムへの共感が確信に変わったのでした。
例えばデッサンにしても、ただ同じモチーフを何度も描くだけでは、なかなか上手くなりません。伸び悩んでいる学生達を観ていると、性急に結果を求めるあまり、観察することがおろそかになっていたり、腕から指先までの動きが我流のままだったり、理由は様々ですが何らかの問題を抱えています。しかし、多くの場合、自分のどこに問題があるのか気がつかないまま、同じ過ちを繰り返してしまいます。
もちろん、自力で問題を解決していける学生もいますが、それはごくごく少数派。そこから次のステップへと導くために、指導側は様々なアプローチをかけます。例えば、今まで見たことのないようなモチーフを用意したり、使用する鉛筆の種類を限定したり、画用紙を真っ黒に鉛筆で塗ってからな練りゴムを使って描いたりと、様々な刺激を与えることで何らかの気付きを促します。自分で気がつきさえすれば、幅の大小はあるでしょうが確実に伸びていくものです。指導者の役割とは、この「気付き」の機会を与えることだと思います。
ただ、このように常に目の前にいる学生を観察し、最も効果的な刺激を与えていくことには大変な労力と能力が要求されます。往々にして、自分の成功経験をもとに、あたかも自分のコピーを作るかのようなプログラムになりがちです。しかし、それは一部の人間にしか有効ではありません。オシムは「練習法は行われた瞬間に時代遅れになっていく」といった内容の発言をしていますが、正にその通り。「受験予備校だから、石膏デッサンと試験に出る実技だけ繰り返せばいい」では、紅白戦とシュート練習しかさせていないのと同じなのです。
アートやデザインの世界で求められる資質は、ジャンルごとに様々ですが、一番の根っこにあるのは「自分の頭で考える。作品を観てくれる他者を意識する。そして観られている自分を意識する」ということではないかと思っています。サッカーなら「手を使っちゃダメ」とか「みんなで協力して相手ゴールにボールを入れる」そのために「常に数的優位が作れるように動く」と同じレベルの話です。その根っこがしっかりしていれば、そこから、いろんな方向に幹や枝が伸びていく。それをしっかりと見守りながら成長の手助けをしていけるように、我々も日々研鑽を積まなければならない。そんな当たり前のことを一連の記事を書きながら、再確認することになりました。
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日記

Posted by hideta