大学入試
2012/01/22
センター試験を終え、アトリエは受験モードに入っています。高校がお休みの昨日、今日は、現役高校生の多くが朝から登校してきて、教室は込み合っていました。月を越せばムサビや多摩美の受験が始まります。一般入試を受験する学生達にとっては、まさに今、山場を迎えていることになります。
そんな学生たちの姿を見ながら、昨日のエントリーで採り上げた、東大の秋入学について、これはやっぱりみんなで本気に考えなくてはならない問題ではないかと思いました。僕自身はいろいろ乗り越えるべき課題は多いとは多いと思いますが、秋入学については賛成です。
まずは、授業年度と会計年度を分けるべきだと思います。現行の春入学の場合、決算事務と卒業、入学事務が重なります。これらはどれも大変な事務量があるはずなので、意図しないミスは少なからず起きているのではないでしょうか?当然ミスをミスとして放置出来ないので、リカバーするために人的な手当が必要な訳で、それがコスト増、あるいはクオリティーの低下に結びついている可能性は否定出来ないと思います。
また、AOや推薦入試など、大学入試における実質的な「青田買い」が、高校の授業成立を脅かしているのと同様に、実質的に3年生の秋から始まる一斉採用型の就職活動が、大学の授業および研究活動を妨げていることも事実です。
企業側が大学の教育研究活動を信用しなくなっているのが最大の原因でしょう。しかし、教養の部分も含めて、幅広い知識を得、種々の問題点に対する対応力を身につける素地を養う場として、大学にはまだまだ頑張ってもらわなければなりません。そして、大学側がその姿を見せることによって、企業も通年採用に舵を切るのではないかと思います。
ディスカッション
コメント一覧
日本語には時制 (tense) はない。
過去・現在・未来のそれぞれの世界を脳裏に描くことは難しい。
前世・現世・来世に関するインド人の教えも、日本語脳では定かでない。
「我々はどこから来たか」「我々は何者であるか」「我々はどこに行くか」といった哲学的命題は考えられない。
理想 (ideal) は、未来時制の内容である。
意思 (will) も未来時制の内容である。
理想がなければ、未来社会の建設計画もない。
意思のないところに方法はない。(Where there’s a will, there’s a way).
意思はなくても恣意 (self-will) はある。
建設的な話はできなくても、出来心はある。
問題解決の能力はなくても、事態を台無しにする力だけは持っている。
政治は遅々として動かない。人々の頭を閉塞感が襲う。
英語のリスボンシビリティ (responsibility) は応答可能性であり、自己の意思により現実対応策を考えて行使するものである。
責任は、自由意思により果たすところが大切なところである。
意思なくしては、責任は果たせない (責任はとれない)。とかく、この世は無責任となる。
ところが、日本人には意思がない。子供・アニマルと同様である。
場当たり的な行動にでるしかない。
未来時制の内容に確信は持てない。不安ばかりが募る。
ただ目的の遂行だけを求められるならば、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶことになるのは必定である。
以前マッカーサ元帥は、日本人を12歳と評したことがある。
日本人は彼の評に立腹こそすれ、その意味を深く掘り下げることはしてこなかった。
我々は、浅薄である。秋入学の動きは、浅はかである。だから、留学生は、我が国を避けて英米に行く。
知的な人になるためには、英米の高等教育が必要である。これは国際的な判断である。
英米の高等教育は、奥の深い大人になるための更なる英語の勉強である。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/
コメントありがとうございます。ずいぶん長い間気が付かずにお返事できなくてごめんなさい。
リンク先のブログ、あまりの長文ゆえ、読み切れていません。時間のある時に再度読ませていただこうかと思います。
今日のところは、コメントのお礼まで。。。