見られるということ

2018年1月3日

2007/08/09
アトリエ新松戸から見た「夏の雲」夏期講習会期間中、受講生たちの一日は毎朝の朝自習から始まります。実技の授業が始まる前の15分間を使って英文の読解や漢字の書き取り、美術用語の暗記などのテストをやっています。
全員の分を毎日チェック、採点して返却しているのですが、ちゃんと予習、復習をしている学生、ぶっつけ本番でやっている学生それぞれです。出来のいい答案にはそのことをほめるコメントを、出来が悪い答案には、励ましつつ復習を即すコメントを書いたりしています。
昨年もそうだったのですが、中に非常に読みづらい答案を提出する学生がいます。漢字の止め、ハネ、ハライができていないのや、アルファベットのスペリングが怪しいもの、自己採点するときに赤ペンを使っていないものなど様々ですが、彼らに共通しているのは、提出物の意味を分かっていないということでしょう。
美しく読みやすい答案というのは、日頃から心がけていなければ書けるものではありません。このままにしておいて試験本番でも汚い答案を出して不合格になったのでは、あまりにもふがいないので、とくに目についた学生を呼び出して、お小言になりました。
「自分のためだけのメモ書きなら、どんな書式でどんな文字で書こうと誰もとがめない。しかし、試験の答案も含め、提出物の先にはそれを見る人がいるのです。ものをつくっていく人間として、見る側のことを考えることは当然のことで、それができていないということは、実は根本的な姿勢の問題なのだ」ということを、諭すように伝えました。
一度や二度のお説教で、すぐに変わることはないかもしれませんが、できるようになるまで指摘し続けます。見る側にたって考えるということがどれほど大切なことか、早い時期に気がついてほしいと思います。
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