「トリニダード・トバゴ戦」1
7日、8日は「書評」ということで、現サッカー日本代表のオシム監督を取り上げてみました。今日も表題は変わりましたが、サッカーをきっかけに教育、そして美術について考えてみたいと思います。
各種報道によると、オシム監督は新日本代表に対してずいぶんユニークな練習を課しているようです。5~6色ものビブスをつけて、色ごとに役割とプレーを限定したミニゲームや、ゲームの中で裏切りを許されるプレーヤーを入れたりと、今まで聞いたこともないようなメニューに、ずいぶん昔のサッカー少年である僕も「ほ~」と感心しています。これらの練習の目指すところは、よくいわれるように「走る」というよりも、「考える」=「(自分で)判断する」内容と速さに重点を置いているのだと感じました。
「教える」ということには、サッカーでも美術でも共通するものがあるのだと思いました。本来作品づくりは「自分の頭で考える」ものです。プロフェッショナルとしてやっていくためには、オリジナリティー、マーケティング、制作プロセスなど、作品に関わる様々なことについて、いちいち誰かの指示を仰いでいるようではいけません。たとえプロにならなくても、自らの意思と力で何かを作り上げた経験は、その人の成長を大きく助けるはずです。結果としての作品も大切ですが、そのプロセスも大切なのです。
ところが僕たちの受け持っている受験生たちは、自分の頭で考えるのは苦手というか、価値判断を外部(先生)に求めがちです。やはり経験も少ないこともあり、自分に自信が持てないのでしょう。「これでいいんでしょうか?」と完成前に聞きにくることも多々あります。教える僕たちもつい「こっちの方がいいんじゃないか」と助け舟を出したりするのですが、いつもいつもそうでは、自分で考える習慣がつかなくなってしまうかもしれません。
今回の代表チームで、あるディフェンダーが試合前に「この試合は3バックでいくのか、4バックでいくのか?」と質問したとき、監督からは「メンバーは選んだ。後はこのメンバーで相手の出方を良く観てしっかり対応しろ」という内容(いまいちうろ覚えですが…)の答えが返ってきたと言います。このエピソードを聞いたとき、僕は目から鱗が落ちるような気がしました。
たしかに監督は選手を選び作戦を示します。しかしサッカーは常に相手の変化するスポーツ。そして、実際にプレーしているのは選手であって、一度プレーが始まれば監督の出来ることは本当に限られています。故にプレーする選手が、相手を観察しながらチームメイトとの共通理解の上で対応していかなければ勝利は遠くはなれていきます。例えば、トルシエ監督が率いた日韓W杯のときは、選手がフラット3を捨てたときから快進撃がはじまりました。しかも、決勝トーナメントで「監督の方が偉いんだ」とばかり、訳の分からない傭兵をして無惨に敗れ去るというオチまでつきました。
このような経験をしておきながら、いまだに「まず作戦ありき」「監督ありき」のような報道がまかり通っている現状は、いったいなんなのでしょうか。(話は少しずれますが、「オシムジャパン」とか「王ジャパン」といった呼称をマスコミが使うのは絶対に辞めるべきです。代表チームは監督の私有物ではないですし、監督も選手も常に評価される立場にいなければ、チームとしての成長、成熟は望めません。このことは「ジーコジャパン」の呼称のもと、全権委譲という名の判断停止に陥り、決勝トーナメント進出という結果も残せず、経験の継承と言う次世代へのプロセスも残せなかったサッカー協会と、それをあおったマスコミに重々理解してもらわなければ困ります。「健全なる批判精神にたった報道」それを望みます…)
ってかなり話が横道にそれてきました。表題は「トリニダード・トバゴ戦」なのにまだ試合もはじまっていません。だいぶ長くなりましたので、この項は1として続きは10日に…
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